10・神社の神とは地縛霊
神社の一般的な説明ではこのようです。「神社とは、日本の宗教の神道の祭祀施設、及びその施設を中心とした祭祀儀礼・信仰を行う組織。鳥居の内の区域一帯を、『神霊が鎮まる神域』とみなす。神は目に見えないものであり、神の形は作られなかった。現存する神像彫刻はすべて平安時代以降のものばかりである。古くは社殿がなくとも『神社』とした。神聖な山、滝、岩、森、巨木などに『カミ』が宿るとして敬い、俗の山、滝、岩、森、巨木と区別したのである。現在の社殿を伴う『神社』は、これらの神々が祀られた祭殿が常設化したものとされる」神社で有名なのが伊勢神宮、出雲大社などですが、権力欲、支配欲の強い幽界の幽霊達が神社などに集まってきます。神社本殿には古参で、かつ幽界魂でも比較的霊格の高い幽霊が支配して占領します。下っ端では二の宮、三の宮、さらに下っ端では境内、最も下っ端の場合は、神社の手水舎、鳥居のある入り口付近などを縄張りに地縛します。神社の神とは地縛霊達神社本殿に地縛した最強の幽界魂は、参拝に来た人に簡単に憑依できます。ところが憑依された人達からは、むしろ「ありがたがられる」ほどです。放射線で有名になった原子の半減期ですが、やはり幽体の電子、レプトン、クォークにも自然素粒子崩壊はやってきます。ですからどんなに頑張っても幽体を維持できる期間は最長で 800年程度です。この幽界の魂達は権力欲の塊です。そこで「私は天津国玉神の息子である」「私は阿邪美都比売命である」と名前を誇示したがるのです。そうしますと、神社の神には、その息子、娘、孫、ひ孫と、どんどん膨れあがって、まるで大家系図のような組織系列が創られていきます。「私は阿邪美都比売命である」と幽霊達に神社などで憑依された人が死にますと、今度は、自分が幽霊になっても「私は阿邪美都比売命の子」だと信じていますので、堂々と参拝者などに憑依して誇示することが原因です。ですから、参拝者からは名前が高位なほど「ありがたがられる」ことになります。神社に参拝する人達の中には、憑依されたくて、せっせと通う人達も多いものです。有名神社ともなりますとファンが殺到、誰も彼もが「アマテラス系列」「大国主命系列」などに憑依されたいのです。そうすれば「大きな顔」ができるからです。現世で大きな顔が出来ますと、その人にとっては「誇り」ともなり、死後も幽界から自分を誇示したくなるのです。日本の神社の元祖神には「他惑星人」も多々います。その他では、恐怖の対象が神として祀られています。山形県天童市には武将、織田信長が主祭神の神社もあります。当然、徳川家康、豊臣秀吉、その他の武将も多くが神となっています。有名な怨霊の神としては菅原道真などで、怖いもの、強いものは何でもかんでも神として祀られることになります。例えば風の神、雷の神、山、海、隕石、蛇、河童、剣、鬼、天狗、龍、魔王などです。一カ所の神社には幽界の魂達が 5名から 100名ほどが縄張り、参拝者が来るのを待っています。しかし第七感を持っている人でないと簡単には憑依できません。いわゆる霊感の強い人が参拝に来ますと直ぐに憑依してきます。「私はこの神社の祭神じゃ!」と喜んで話しかけたりします。話が盛り上がりますと「酒をもってこい」「肴がほしい」とリクエスが始まりますが、最初に話しかけるのは神社を縄張りにしていても低位の幽体です。要求も酒や肴などのささやかなものです。ちょっと上位になりますと、より大きな要求をして威厳を示そうと絡んできます。一方、憑依された方も喜んで酒を買って、お供えしながら話に盛り上がったりします。神社の中位幽霊からは、要求も大きくなってきます。神社という所には幽霊が集まります。有名な神社では何百という幽霊達が住みつくのです。ここで、木花咲耶姫神を例としてご説明しましょう。木花咲耶姫神を祭神にしている神社は浅間大社ですが、日本には 1300杜の浅間神社があります。その他、木花神社、子安神社、都萬神社、霧島神宮、高千穂神社、新田神社などでも祭神となっています。この神社にお参りする人の中には「私はコノハナノサクヤヒメの生まれ変わりだ」と信じている人達も参拝に来ます。浅間神社一つとっても、 1300社に 2人ずつ、そういったオタクがいると仮定しますと、 2600名の自称「木花咲耶姫神」が日本国中に存在することになります。こういった人は心の底から自分は木花咲耶姫神であると、信じ切っています。そこで死にましても、幽界から自分が通った浅間神社に傾注しています。幽界ですから己の姿を地上界で思い描いていた姿に創りだし、可能な限り神々しく装って浅間神社に地縛することになります。参拝者に自分たちより霊格が低く第七感が開いた人がやってきますと、そそくさとしゃしゃり出て「私はコノハナノサクヤヒメである」と大見得を切ることになります。参拝者が驚き平服し、かしずく姿を見ますと、もう嬉しくて嬉しくてたまりません。そこで、自分を如何により尊大に見せるのか、より厳格な形式を重んじ、表現するかに腐心します。要はかっこつけたがるのです。こういった幽霊が、神社の至る所に縄張りを持って鎮座することになります。例えば、入り口の鳥居、龍の口から水がちょろちょろと流れる「手水舎」を縄張りにする幽霊もいます。参拝者がいたずらで「手水舎」にタバコを投げ捨てたとしますと、自分の威厳と縄張りを侮辱されたと激怒することにもなります。こうなったら大変です。タバコを捨てた人に憑依して、徹底的に反撃することになります。狙われた人には病死する人も出ます。これが「祟り」です。私はコノハナノサクヤヒメの生まれ変わりだと信じている人達は、平均しますと霊格は低めです。神社に地縛したがる魂の持ち主ですので、その人が死にますと動物幽界に向かう人も多々あります。このような人は、幽霊となって特別な動物の姿に自分を創造します。例えば黄金の狼、キツネ、トラ、犬、猫などで、その姿で、またまた神社に地縛するのです。天狗信仰の人は、死後も天狗となって地縛します。日本では特に龍神信仰の人が多く、我も我もと幽霊となって、憧れの龍姿に自分を創出すのです。このように神社には次から次へと幽霊達が、可能な限り尊大に威厳在る姿で集まって縄張りを作っていくのです。彼ら幽霊達が喜ぶのは、神社の形式を遵守する参拝者です。特に自分たちを神としてうやうやしく挨拶してくれる参拝者などはお気に入りとなります。神社にお参りする場合には、軽い気持ちで参拝してはなりません。相手は幽霊達です。憑依も朝飯前、あたなの魂に催眠も簡単にやってのけます。変な催眠でも賭けられますと、発熱、事故、急病、不幸事など、あらゆる災いを与えられ、避けきれません。 ♪行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ 童歌「とおりゃんせ」の歌詞ですが、この内容は真実です。自らの意志で地縛霊達の中に飛び込むのですから、気を引き締めて参拝することです。ただ霊格の高い人は、神社に行こうと何も影響されることはありません。彼ら地縛霊達は霊格が低いので、呪いも憑依も、なにも手出しすることは出来ません。でも「神社に願い事をしよう」となど考えつく人の霊格は、当然平均か平均以下の霊格の人となります。ですから注意が必要なのです。本当は、神社に近づかないのが一番安全なのですよ。
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