平和公園の数々のモニュメントに含まれている「いやーな」暗示
資料館の正面玄関近くには案内所があって、そこにボランティアのガイドが待機しています。
「爆心地に行きたいのですが・・・」
そう訊ねた私の顔を数秒間見つめた後、「私についてきてください」と、スタスタと外に出て階段を下りていきます。
おそらく70歳は超えているであろうその矍鑠(かくしゃく)としたガイドさんは、想像以上の速足で私を爆心地に連れて行ってくれました。
ここは原爆公園です。
公園の北側には、爆心地を示す標柱が建っており、その手前に(おそらく)御影石でできた大きな石棺のような石の箱があります。
この真上500~600メートルで、原爆「ファットマン」は起爆した、とされています。
その前に立って、「この中に何が入っていると思いますか?」と、そのご老人は私に訊ねました。
「亡くなった被爆者の方たちの名簿ですね」と私。
「そうです。毎年、8月9日がやってくると、原爆死没者名奉安数が書き換えられてきたのです。
去年は172,230人でしたが、今年も8月9日がやって来ると、また新しい名簿が加えられて奉安されるのです。被爆の影響が認められる長崎市民の新しい死です」・・・
すかさず、ABCCについて、長崎の人たちが、どのように思っているのか訊いてみました。
そして、戦争に突き進もうとしている安倍晋三という、戦後もっとも凶悪で冷酷無慈悲な男について、長崎市民として、被爆体験者として、そのご老人に率直に意見を聞きたかったのです。
しかし、彼は、一瞬怒りの表情を見せながらも、うんうんと頷いて、それ以上語りませんでした。「いまさら」・・・「自分を納得させなければね」という穏やかな表情に戻りつつ。
なるほど、長崎には今でも、何らかの無言の圧力がかかっているのだと理解しました。ABCCと戦後の長期政権について話すことは、できればタブーにしたいのだと。
しかし、本音では、のほほんと生きてきた本州の人々と私たちは違うのだと・・・言いたいのです。
原爆公園の北側の用水路側の端っこには、破壊された浦上天主堂の残骸が残されたままになっているのですが、その浦上天主堂の塔の一部が、原爆公園の隅っこに移設されています。(下の写真)
塔の上の聖人の像には光輪がありませんでした。これにはホッとしたものです。
この公園の西側に、木陰が強い日差しを遮るように建てられているのが、「平和の母子像」です。
つい、うっかり見落としてしまいそうな場所にあるので、ネットでもあまり取り上げられていません。
気持ちのいい像ではありません。
私がこの像を見たとき、瞬間的に脳裏に浮かんだのは、このイラストでした。
これは、セミラミスと、その息子タンムズです。
私たちが、マリアと呼んでいる「存在」です。
タンムズとは、言うまでもなくニムロドのことです。
この三位一体を表している絵には光輪が描かれています。これは太陽信仰を表しており、いわゆる、ペイガニズムを暗示しているのです。(詳しい解説)
幸いにして、この平和の母子像には光輪が描がかれていません。
広島平和公園にも、同じような意味を持った像があります。それは「祈りの像」です。
この像は、明らかに三位一体を表しています。
右側の男性と、男女の間の子ども(男の子)は、同じ人物です。両方ともニムロドです。
右側の男性(=ニムロド)の生まれ変わりが真ん中の男の子(=ニムロド)ということです。
右側の男性と女性は母子。つまり、母子同士で婚姻関係を結んだのです。(混乱してきた人はコチラ)
日本人には、こうしたことは、ほとんど理解できないでしょう。しかし、このようなシンボリズムが、人の潜在意識に働きかける影響は決して無視できないのですが、気が付く人はいないようです。
原爆公園の真下に今でも眠る被爆者たち
長崎の原爆公園の北側の端っこに、地下に下がる階段があります。観光客なら見落としてしまうでしょう。
ボランティアのそのご老人は、私たちをそこに案内してくれました。
その半地下の断面には、分厚いガラスがはめ込まれていて、熱線で焼かれた生活用品が瓦礫の層に埋まっているのを見ることができます。家具や家の建具などがバラバラになって何層にも折り重なるようにして埋まっています。
生々しいので画像は貼りません。
というのは、その瓦礫の間には、まだ大勢の遺体が埋まったままになっているからです。
つまり、この爆心地周辺は、住宅密集地だったのです。
見分けがつかなくなるほど真っ黒に焼かれた黒こげの死体の多くは回収されて荼毘に付されたものの、残りの人たちは見つからないままです。
原爆公園を造るときに、荒々しくブルドーザで掘り起こしたものの「ヒトの形をしたもの」は見つからなかったそうです。
「ここには、まだ数十人の人が埋まったままになっています・・・」と、そのボランティアのご老人は私に言いました。
それは、意外にも事務的に、要領よく、てきぱきと説明してくれました。
「なぜ、最後の一体まで探さず公園を造ってしまったのでしょう?」と私。
沈黙の後で、「そうしたかったからでしょうね」と多くを語りたがらないご老人。
私は、知らなかったとはいえ、その上を歩いてしまったことを後悔しました。
そして、一般の観光客も、そうして人が埋まっている上を歩かされていることに恐怖を覚えたのです。
「○○記念公園」、「○○平和公園」と名付けられた公園には、歴史の暗部が封印されていることが多々あるということです。
破壊を免れた長崎三菱造船所
数年前から、長崎の原爆はB29から投下されたものではなく、地上で起爆させたという「地上起爆説」があります。
現場の痕跡や長崎原爆資料館の豊富な遺品の状況や、数百点に及ぶ直後の現場の写真、そのボランティア(市から委託を受けている)のご老人が地元の被爆者たちから直接聞いたという話などすべてを勘案すると、地上起爆説は、かなり無理があるものと思わざるを得ません。
彼は、長崎で生まれ、地元の被爆体験者とともに戦後を過ごしてきました。その聞いた話を総合すると、こういうことになります。
「当初は小倉市が原爆投下目標に設定されていました。
8月9日当日、小倉市の上空には厚い雲が垂れ込めていたため、地上がまったく見えず、急きょ、長崎の三菱造船所に標的を変えたのです。
しかし、長崎上空も雲に覆われており地上が見えない。
かなりの高度を旋回していると、一瞬、雲の切れ間から長崎市街を見下ろすことができた。今だ!その間隙をぬってファットマンは投下されたのです。そのため、ここが爆心地となったのです。」。
広島への原爆投下も市街になってしまいましたが、広島の呉海軍工廠の破壊を目的としたものであることはあきらかです。
この港で起工された戦艦大和は、原爆投下の4ヵ月前に九州の南方海域で米空母から飛び立った艦載爆撃機による魚雷攻撃によって撃沈されています。
長崎三菱造船所で建造された戦艦武蔵も終戦の前の年の10月に、フィリピン沖で撃沈されています。
以後、広島にも長崎にも、米国が恐れるに足る戦闘能力を持った戦艦を造る余力などなかったにも関わらず、この二つが標的とされたのはツジツマガ合わないのです。
ましてや、その長崎三菱造船所に、1909年に設置された鎚頭(ついとう)型起重機(ハンマーヘッド型クレーン)は、原爆投下によって損傷を受けずに、現在でも稼動しているのです。
これについては、長崎の人たちも合点がいかないと思います。
長崎三菱造船所は、あえて標的をはずされたかのようです。
異界の街・長崎に見る痕跡の数々
さて、爆心地の原爆公園の北側には、あの有名な平和祈念像があります。
バフォメットと同じポーズをした「平和」のイメージをまったく感じさせない不気味で奇妙な像です。
「○○記念公園」と名付けられた公園には、歴史の傷跡や恥部を隠すために造られたとされる公園があるという話は聞いてはいましたが、まさか・・・絶句です。
さて、公園から町中を少し歩いて、別の場所に復元された浦上天主堂に向かいました。
この辺りは、長崎市の中心街から大分離れているので、喧騒から守られています。
以前、連休に訪れたときは、若い女性であふれていましたが、連休をはずすと、誰もいません。静かです。
これは、戦後、建てられたものです。
浦上天主堂周辺の道路の歩道には、こうしたマークのある鋳鉄の蓋が10メートルから30メートルおきにあります。そう、そこいら中に、こうした栓があるのです。
「おすい」、「電気」、「通信」、「空気弁」など何種類もあります。
これらのペンタグラム(五芒星)は偶然でしょうか。
日本に入って来た最初のグローバリスト、トーマス・グラバーの謎
次に、私がもっとも苦手な「るるぶ族」のいる観光スポットです。
ジェラードを片手にもって、スマホで写真を撮りながら歩いている女子たちが大勢、集まっている場所です。
そう、たいていは、「祈りの鐘」とか、「恋人の丘」とか、そんなスポットのある場所です。
近づくだけで非常に憂鬱になりますが、あることを確かめたかったので、意を決して閉園時間30分前にグラバー園に入りました。
表側から入ると、将来のカウチポテトおばさんたちが、怒濤のようになだれ込んでくるので、大浦天主堂側の出口から入っていきました。
何本かの野外エスカレーターを乗り継いて昇っていくと、グラバー園の頂上に着きます。
そこから、丹念に探しものをしながら下に降りていきます。
グラバー邸。
幕末の武器商人トーマス・グラバーの邸宅です。
長崎港を見下ろす丘の上にあります。ここからは、異国情緒漂う長崎の街並みを一望できます。
行ってみて分かったのは、意外にも、グラバー邸そのものに関心を持っている観光客は少なく、ほとんどが展望テラスで写真を撮ったり、ガーデニングの小径をのんびり歩くカップルばかり。高齢者は、ほとんどいません。
グラバー邸周辺は閑散。
さて、探し物の探索。それは、例のグラバー邸の門柱です。
みつからない・・・閉園時間が差し迫っている。だめなら、明日の朝、また来ようか。
そう考えていると、私の後ろで「フリーメーソン。フリーメーソン」という声が聞こえました。
おそらく、台湾から来た家族連れの観光客で、「フリーメーソン」と言っていたのは、その家族の高校生ぐらいの娘さんでした。
振り返ると、そこにありました。
門柱の周辺だけが、雑草が生えたままになっていて、手入れがされていません。
グラバー園の管理者は意図的に隠したいのだろうか、とも思ってしまうような打って変わっての荒れ具合です。
急いでいた私が見つけられなかったはずです。
これは、画像を加工してあるのでフリーメーソンのマークが分かりますが、現況は、チラッとみただけでは判別できないほど朽ち果てている状態です。
この門柱のフリーメーソンのマークを根拠として、後に、「トーマス・グラバーはフリーメーソンで、坂本龍馬を倒幕に導いた」とする陰謀論に繋がっていったのです。
フリーメーソンの下っ端、高須クリニックの高須克弥は、「龍馬はフリーメーソンだった」と断定していますが、と学会の皆神龍太郎は、「この石柱は昭和に入ってからクラバー園に寄贈されたものである」と言っています。
だから、「グラバーは、フリーメーソンではない」と短絡的に結論付けています。
どっちも、トンデモです。二人とも自分が言っていることの矛盾に気が付いていません。
少なくとも、グラバー園の管理者が、フリーメーソンと関わりを持つに至った、ということ。
そして、トーマス・グラバーが門柱の寄贈を受けるに足る「関係」を持っていた、ということ。
これは明らかなことです。
それでも、フリーメーソンではない、というためには、この門柱を寄贈した人間なりグループがフリーメーソンではなく、トーマス・グラバーの評判を貶めるために、世界最大の厄介な悪魔崇拝のカルト宗教「フリーメーソン」のマークを刻み込んだ門柱を造らせて寄贈した理由について議論しなければならないのです。
つまり、龍馬が、グラバーがフリーメーソンであるかないかは関係ないのです。分かるでしょうか?
彼らは、実際に、倒幕という開国にこぎつけたのですから。
要するに、グローバリズムは江戸時代から日本に侵食していたということです。
日本で最初の貿易商社「亀山社中」は龍馬が創設したことになっています。
資本力のない龍馬に南蛮渡来の中古の武器を輸出したのは誰でしょう?
その高額な代金を龍馬が自腹で支払ったとでも?
第一、こうした一切合切を、誰が仕切って、龍馬をお膳立てしたのでしょう。
その後、龍馬は幕末に暗殺されました。(近江屋事件)
そして、江戸幕府を倒した後、最後の幕末の志士、土方歳三も函館の五稜郭で狙撃を受けて戦死したのです。
証拠はすべて消されました。
ちなみに五稜郭は、ペンタグラム(五芒星)を象って設計されています。
五稜郭は、日本のペンタゴンになることなく記念館になっています。
Comments